日本の小説家、芥川龍之介。23歳の時に代表作となる「羅生門」を発表するなど、若くしてその才能を開花させた日本を代表する文豪です。今回はそんな芥川龍之介の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「日常に感動する生き方」について考察します。 いや、もうその位で沢山だよ。君のように理屈をつければ、案山子も鎧武者になってしまう。君のように嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思ってしまうぜ。 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男の他に外に誰もいない。 (本作の書き出し) 洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。 読書ブロガーの小助です。年間300冊ほど本を読みます。でも読書は量じゃなくて、どれだけ内容を自分のものに出来るかが大事。僕はほとんどできていません。あらら。ここではそんな『羅生門』について解説(考察)していきます。それではみていきましょう。この市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)ってなんのことだか分かりますか?高校の教科書にも載っているので、一度は読んだことがあるという人が多いのではないでしょうか。『羅生門』ってなんでこんなに有名なんでしょうか。もちろん、教科書にも載っていて結末(オチ)も面白いのですが、どうやらそれだけでもなさそうです。『羅生門』は『今昔物語集』から題材を取って創られました。(「巻二十九第十八 羅城門登上層見死人盗人語(羅生門の上層に登りて死人を見る盗人のこと)」並びに「巻三十一第三十一 大刀帯陣売魚嫗語(帯刀の陣に魚を売る嫗のこと)」)Copyright© あらら本店 , 2020 All Rights Reserved.芥川龍之介(1997)『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p9, 文藝春秋.芥川龍之介は他にも多くの古典作品をアレンジ・リメイクしており、その作品群はジャンルによって王朝物や切支丹物、中国物と呼ばれています。では、下人はどのようにしてその自問自答にけりをつけたのでしょうか。 芥川龍之介の名言には「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である」などがあります。 代表作は『羅生門』『鼻』『地獄変』など。小説家、芥川龍之介(1892~1927)の名言をご紹介します。 芥川龍之介に『ひょっとこ』という小説があります。大正3年12月に発表された作品です。まだ『羅生門』とか書く前の、芥川竜之介としては非常に初期に書かれた短編小説です。
芥川 龍之介の名言・格言集100選プラスα!No,084. 芥川龍之介は日本を代表する作家です。若い頃からその才能を認められますが、才能故に悩む事も多く、35歳の若さでこの世を去っています。今回は芥川龍之介の激動の生涯、その死因や名言、作品につい … と唐突に作者が登場してきます。このような文章の構図にした理由は何なのでしょうか?下人の「ある勇気」というのはある種の爽快感、決断をともなう悪という存在。陰鬱だった序盤を吹き飛ばすかのような鮮やかな結末ですが、それはもちろん正義などではなく、悪。読者になりふり構わない生き方を見せることで、悪と正義の存在意義を問う構成にしている結末のように感じられます。それから35年後の昭和25年(1950年)に巨匠黒澤明が同名の映画を製作し、ヴェネツィア国際映画賞金獅子賞とアカデミー賞名誉賞(のちのゴールデングラブ賞外国語映画賞)を受賞しました。さらにこの言葉の後に、下人が不意に右の手をニキビから離したということも書かれており、下人がそれまでのモヤモヤとした感情に吹っ切れたということが暗示されています。ちょっとしたところにも、文豪ならではの技巧的な表現がみられますね。そんな羅生門で雨宿りをしている彼は今後、自分が生きていくためにも盗人になるしかないと考えているものの、その勇気がありませんでした。彼はこの一晩の寒さをしのぐため、羅生門の楼の上に行きます。そこには死体がゴロゴロ横たわっていましたが、その中に一人の死体から髪を抜く老婆がいました。 この言葉は上で書いた「ある勇気」を持ったことが表現されている重要な部分。シンプルな言葉ながら、下人が盗人になる勇気を出したという大きな転換点が表されています。最初に下人の様子を説明し、次に作者の主観によって京都の衰微した状態や下人の状況などが説明されているこの文章。客観的に語られる物語の合間に、作者による細かな説明が入ることや作者による主観的内容が加えられる事により、その後再び客観的文章に戻った時に下人に対する理解が二重に深められるためだと思われます。 さて、それでは小説の題材となった羅生門、もとい、羅城門はどこにあるのでしょうか?残念ながら、羅城門は現存していません。ですが、跡地は残っており、京都市南区の東寺の近く、唐橋花園公園の中に「羅城門遺址」と刻まれた石碑が立てられています。芥川龍之介の小説『羅生門』には実はモデルがあり、今昔物語の本朝世俗部巻第二十九、本朝付悪行の中にある『羅城門』と巻第三十一、本朝付雑事の中にある『売魚』をベースにしていると考えられています。また、『羅生門』の死体の女性の生きていたころの所業は『売魚』で書かれています。『羅生門』は人の性悪説的な要素を示している作品ではないでしょうか。ここでは、そのテーマを示す作品の要素をご紹介していきます。『売魚』は男が羅城門に上って老婆に出会い、着物を奪い去って逃げるという大まかな物語の流れは同じです。『羅生門』と違う点は、男がもとから盗みのために上京してきたことや、老婆が髪を抜いていた死体が元は老婆の主人だった人物といった設定などがあります。 このようなシンプルながら骨太な文章表現、物語の構図が発表から100年以上たった今でも読まれ続けているゆえんなのではないでしょうか。『売魚』は最初から男を悪人として登場させていましたが、『羅生門』は悪人になるか迷いながら物語が進み悪人へと落ちていくのです。ここで重要になってくるのは『羅生門』では男は一度正義に目覚めたにもかかわらず、悪人になったことです。下人は老婆を捕まえ、死体の髪を抜いていたワケを聞くのですが……。 物語は雨の降る夕暮れから始まって真っ暗な夜で終わり、天候などからも暗さ・陰鬱さを感じさせる展開です。そして文中では下人が右の頬にできた大きなニキビを気にしているという登場しています。このニキビも、「モヤモヤとしたもの、煩わしいもの、膿」を具現化したような象徴のようです。この3人に共通するのは何かというと、自分が生きるために悪事を働いたということです。つまりここでは一貫して悪が存在しており、上記でも紹介した「羅生」を表現しているのです。 この当時京都は地震や火事、飢饉など災いが続き、そんな状況なので人々は金を稼ぐために仏像や仏具を砕いて金銀の箔を売るなど洛中はとても荒れていました。また引き取り手のいない死人を羅生門に捨てていくという習慣が出来たため、鴉が死人の肉を喰いにきたりと羅生門は非常に気味の悪い場所でした。今でも根強い人気を誇り、高校生などの現代文の教材としても使われていたり、映画化がされたりもする、芥川龍之介の代表作のひとつ、『羅生門』。今回はそんな本作のあらすじから作品に秘められた思い、名言までご紹介していきます。『羅生門』はまだ芥川龍之介が無名だったころの大正4年(1915年)の11月に雑誌「帝国文学(1895年から1920年発刊)で発表されました。このとき芥川はまだ23歳の青年で、東京帝国大学英文科に入学してから2年後のことでした。滑り台やシーソーのすぐ横に、柵で囲われており、日常のなかに急に遺跡があるということで、少し違和感を感じるかもしれません。気になった方はぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。さらに「羅」という字を大辞泉で調べてみると、「網の目のように並べ連ねる。並ぶ」と書かれています。京都の街が碁盤のようにできているというのもありますが、小説では人々の「悪」の連鎖的つながりにも関わってくる文字とも考えられるのではないでしょうか。平安時代、災いが多発している京都の羅生門に下人が一人、雨が止むのを待っていました。ストーリーのなかでも、印象に残る言葉として、主人公が短く発した ある日の暮方の事である。一人の 下人 ( げにん ) が、 羅生門 ( らしょうもん ) の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々 丹塗 ( にぬり ) の 剥 ( は ) げた、大きな 円柱 ( まるばしら ) に、 蟋蟀 ( きりぎりす ) が一匹とまっている。 step起一人の下人が羅生門の下で途方に暮れている。step承羅生門の上には老婆がいて、死人の髪の毛で鬘(かつら)を作っている。step転下人は正義の心で老婆にとびかかるが、老婆の言い分を聞き納得する。step結それならばと下人は老婆の着物を剥ぎ取り、夜の闇に消えていく。 羅生門. 現在、高校国語で取り上げられることが多い『羅生門』。 実はこの作品の終わりにある、最後の一文がもともと違っていたことは知っていますか? 芥川が『羅生門』を一番初めに発表したときと、現在ではどのように違っていたのでしょうか。 こ 日本の小説家、芥川龍之介。23歳の時に代表作となる「羅生門」を発表するなど、若くしてその才能を開花させた日本を代表する文豪です。今回はそんな芥川龍之介の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「日常に感動する生き方」について考察します。 『羅生門』は芥川龍之介の文壇的なデビュー作として知られています。高校の教科書にも載っているので、一度は読んだことがあるという人が多いのではないでしょうか。ここではそんな『羅生門』について解説していきます。それではみていきましょう。 太宰治と共に有名で夏目漱石を師匠に持つ日本の天才小説家・芥川龍之介。「羅生門」「蜘蛛の糸」「蜜柑」「遺書」「母」などの名作、名言のたくさん詰まった魅力的な長編、芥川作品の特徴が全面に出た短編、青空文庫で読めるものなど、沢山あって迷いますよね。 1926年、病状が悪化し、湯河原で療養。その後、鵠沼の旅館に滞在して妻子を呼び寄せる。龍之介は中学での成績が優秀であったため、無試験で第一高等学校(旧制一高)に入学。同期入学には菊池寛や久米正雄らがいた。1921年に海外視察員として中国を訪問。しかし帰国後次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む。作品もこの頃から私小説的な傾向が現れ、晩年の『河童』などへと繋がる。他を嘲(あざけ)るものは同時にまた他に嘲られることを恐れるものである。懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑わぬという信念の上に立つものである。生後間もなく母が病気になり、現在の墨田区両国の母の実家の芥川家に預けられ、伯母に養育される。1916年に大学を卒業後、海軍機関学校の英語の嘱託教官として教鞭を執る。同時に創作にも励み、短編作品を次々に発表。11歳のときに母が亡くなり、翌年に母の実兄の養子となる。芥川家は江戸時代に徳川家に仕え、茶の湯を担当していた家柄であり、家中が芸術・演芸を愛好していた。1927年4月、帝国ホテルで心中未遂事件を起こす。そして同年7月、『続西方の人』を書き上げた後、致死量の睡眠薬を飲んで自殺。死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設立。日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。1913年に東京帝国大学英文学科へ進学。在学中に菊池寛、久米正雄らと同人誌『新思潮』を刊行。同誌上に処女小説『老年』を発表した。1919年に教職を辞して大阪毎日新聞社に入社。出社の義務はなく、創作に専念する。1919年に結婚。