空を感じるか、あるいは知ることに意味があるかどうかというのは、 仏教においてはそれこそ「意味」を得ないのではないかと思います。 なにくそと 雪割り芽吹く 福寿草. 仏教には、何が教えられているの?仏教には何が教えられているのか簡単に学ぶには、仏教の目的を知るのが一番です。ほとんどの現代人に知られていない、仏教の教えられた本当の目的とは? だから仏教では物事を空として観なさい(空観)と説いているのです。 空とは、あらゆる物事に固有の実体は無いと言う事。 主観や、固定的な見解や、価値判断は真実として在るのでは無く、飽くまでも心の産物に過ぎないという事。 ”本来は一つ”ということが共感できます。努力します。ありがとうございました。模範的なご回答ありがとうございました。「我あれば彼あり。彼あれば我あり」循環していますね。正しいと思います。どんな人でも好きになればいいのかもしれませんが、意地悪をされたり いじめられたりすると嫌いになってしまいます。無視もできないでしょう。その苦しみに耐えられる強い精神力を身につけ、ありのままで見れるよう頑張っていきます。ありがとうございました。自分自身の問題なのだなと思いました。今日から修養を積んでいきます。瞑想や座禅をやってみたいのですが、そこまでの気持ちが高まっていません。そのレベルに達して体験してみたいです。参考になりました。ありがとうございました。幻だと自分の存在もなんだかつまらないような気がしました。謙虚に生きていこうと思います。ありがとうございました。詩的で素敵ですね。とてもあまくうつくしいです。末文の”反射”という意味が少しわかるような気がしてきました。ありがとうございました。私も、自分がふわふわしてすぐ破裂してしまいそうな泡だと思っています。が、今は一生懸命に生きようと思っています。ありがとうございました。とても簡潔でわかりやすいご回答をいただきまして大変ありがとうございました。反省していきたいと思います。お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
「空」は、仏教思想において最も重要な教えの一つである。空は無と有、否定と肯定の両方の意味をもつが、世間では「から、あき、むなしい」等の意味で把握され、「無」の面だけが強調される傾向にあ … この福寿草に、ほとけが満ちてい … インド仏教徒は、瞑想の極致のヴィジョンとして、「空」を「発見」したのでした。 世間のフロアでは、〈私〉は〈私〉です。 人は自分というものがどのようなものであれ、自分は自分であり、かりそめにも他者でないことを意識して行動します。 大学へ行くか専門学校に行くか進路に悩んでいます。私は中学生の頃アルボムッレスマナサーラ長老の本を読んで仏教に興味を持ちました。お坊さんになりたいわけではないですが、仏教学の学べる大学へ行って心のあり方、仏教の歴史を勉強したいです。でももっと色々な本を自分で読むだけでも大学まで行かなくても勉強になるのかな?とも思います。大学は学費もかなりかかってくるのですごく悩みます。それと専門学校と迷ってるわけは、親の仕事を継ぐのであれば専門学校へ行くことになるからです。きっと親は継いでほしいと思います。それが親孝行かなとも私は思います。でもしたいって思わないし、その仕事をしてる私を想像しても楽しくなさそうです。やっぱり仏教学の学べるの大学を調べれば調べるほどワクワクします。親は専門学校に行ってくれると今も思ってると思います。大学に行きたいと言い出せないです。残念そうな顔を見るのがつらいです。私は一人っ子なので継ぐなら私しかいません。奨学金を借りてまで大学へ行って仏教を学んでもいいですか?「和顔施」も、やはり状況に応じて変わっていく(変えねばならない)のでしょうか? 「和顔施」は、とても良い言葉・行為だと、私は思っています。回答僧の皆様も、何度か回答で触れられていますね。 ただ、新型コロナウイルス感染防止対策で、マスクが必須となり、表情を読み取りづらくなりましたね。逆に、私の表情や意志も、相手に伝わっていない可能性があります。 いずれ新型コロナウイルスは収束しても、以前と同じとはならないでしょう。「和顔施」も、今後はひと工夫する必要がありそうですね。 これ以上「ギスギスした社会」になるのは、私は嫌です。 回答僧の皆様は、和顔施の際に、何か「ひと工夫(プラスアルファ)」をされていますか?ドーナツの穴みたいなものと言われます。あるけど無い、無いけどある。二度目の相談です。先月末、今年入籍予定のパートナーを突然死で亡くしました。お通夜、お葬式を終え、今は四十九日を待つばかりです。涙の量は減りましたが、毎日泣いて暮らしており、何もする気が起きません。ただ食べて、寝て、過ごす毎日です。だいぶ楽になりましたが、毎日寂しくて苦しいです。しかし、彼のご家族には本当に感謝で…●お葬式では、私も家族として扱ってくれた●末期の水や夜通しのお線香も参加させてくれた●戒名に私の名前を一文字入れてくれた●分骨や形見分けをしてくれた●その上、「幸せになってね」と声を掛けてくれた感謝をしていますが、私があまり仏教に詳しくなく…知り合いに、上記を伝えたところ、「(戒名について)彼はあなたの一部を持ってあの世に行くのね」と言われ、ハッとしました。そして、ちゃんと意味を知りたいと思いました。私の知識不足で大変恥ずかしいのですが、基本的な意味合いはすべて調べました。が、お坊様から見て、それぞれの意味合いやアドバイス?を頂けるとありがたいです。ちなみに彼の家は日蓮宗です。死別直後は、化てでも戻ってきて欲しいと思いますが、今は彼が迷わず笑顔で成仏することを願えるようにはなってきました。何卒、宜しくお願いします。「空」というのは、つまり、無実体・無自性・無自相ということなのですが、要は、そのモノ・コトが、それ自体の側において、永久永遠に変わらずに存在し続けているモノ・コトとして有り得ているのかどうかということであります。もう少し詳しく述べるならば、他に(例えば、要因や条件等に)依存せずに独立自存として成立しているものが果たして有り得るのかどうかということを考えてみる必要がございます。仏教は、「智慧と福徳(方便)」を両輪として、確かに修習していくことが求められます。その中でも、智慧の開発における最大の要諦が「空と縁起」の理解となります。子どものことを「がき」ということがありますが、これは仏教語の「餓鬼」からきた言葉なんでしょうか?心や体の悩み、恋愛や子育てについて、お金や出世とは、助け合う意味など、人生において誰もが考えることがらについて、いろんなお坊さんからの癒しや救いの言葉、たまに喝をいれるような回答を参考に、あなたの生き方をあなた自身で探してみてはいかがでしょうか。もちろん、「空と縁起」の理解は、非常に難しいですが、とにかく、私たちは、般若心経の中にも出て参ります、「顛倒夢想」の中、あるいは難しい用語となりますが、「倶生諦執」、「有染汚無明」、「二(人我執と法我執、倶生我執と分別我執)我執」の中にあり、常に誤った認識状態で、モノ・コトを実体視執着してしまい、それで迷い苦しむことになってしまっております。更に分かりやすく述べるならば、もしも、他に依存せずに独立自存として存在するものがあるならば、一応、この宇宙の始まりと言われているビッグバン以前からも、それはそれとして存在していなければならないのであります。もしも、シャ家族様のその現在の心身が実体として有るとするならば、その現在の心身そのものが、ビックバン以前から実体として有るということにもなります。しかし、もちろんそんなことはあり得ないのですが、その理解を一つ一つに及ぼしていくことで、これで間違いないという心底からの了解が必要となります。回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております)遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか?もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか?よろしくお願い致します。「物質はあるのに空である」とは、般若心経の「色即是空」のことを言及されているのではないかとお察し致します。しかし、それは、次の「空即是色」という理解も併せて行うことが必要となります。仏教では無我や無自性を説きますが、それが否定するのはあくまでもインド哲学に於けるアートマンであって、日本あるいは他の文化の持つ「自我」とは必ずしも同一ではないと思います。「永続する魂」たる「アートマン」が存在しないことを理解すれば、即ち諸行無常を理解すればそれで良いのではないか、と思ってしまいます。釈迦は八正道など自身の心がけを要することを勧めていますので、「無我」とは「ぼーっと生きる」ことでは断じてあり得ないと思います。インド文化に住まない我々が「無我」の道を生きて行くとは、どういうことを意味するのでしょうか。ただし上記のこれらは、あくまで小生の感じるままのものであります。こんにちは。最近仏像や曼荼羅などの仏教美術にすごく興味があります。私自身も何かを作る人間なので、自分の作品にも取り入れたいと思っています。わからない事は自分なりに調べてみてはいるのですが、仏教に関する専門知識はほとんどありません。何となくいいなと思った程度で作品を作ってしまって良いのでしょうか?また、私の知り合いで宗教をモチーフに作った作品に誤った知識や解釈が含まれており、かなり厳しい批判をされてしまったという人もいます。私も自分の作品をインターネットで公開したりします。作りたいものは決して仏教を貶すような内容の作品ではないのですが、宗教というデリケートな要素を含む作品は公開しない方が良いのでしょうか?よろしくお願いします。最初に、、、別に報われたいわけではありません。どちらかというと達観していると思います、いろいろ経験して結論として出した考えです。仏教を勉強し、理不尽な目に会う度に疑問に感じるので質問をしたいです。・人の不幸には圧倒的な差がある。→どうしようもない、心の持ち方一つで変えられるものではない、不幸は不幸。仏教修行をして執着を手放してる群発頭痛の人が幾ら心もの持ち方を変えても苦しく痛みに関しては、生まれつき健康で他人に危害を加える人よりも圧倒的に不幸である。・人に親切にしたり愛したり優しくしても、恩を仇で返されたり感謝すらされない人もいる。→最新の研究では人はサイコパスに魅力を感じるようです。また生まれつきの容姿や印象で好感度が変動するようです。ストックホルム症候群や共依存など他人に優しくしない方が人は恩恵を得れる生物のようです。・人に与える人より搾取する人の方が富を得れる。不幸量は下がる。→本人の認知としては搾取している気がしない人も沢山います。というより世の中先進国は後進国から搾取していますが誰も富を彼らに分け与えません。そして搾取した人達の方が贅沢できます。教育を受けたいサウジアラビアの女性よりも専業主婦になりたい日本人女性の方が教育が整備されています。食べ物を欲しがるアフリカの貧しい人よりも、廃棄する先進国の人の方が不幸ではありません。・感謝しても報われないが、他人を侮辱して壊す人は報われる。→感謝感謝の毎日ですが、感謝するより他人を貶す方が相手を支配できます、経営学や政治学ではよく言われてますが他人を従わせるには恐怖や暴力的な支配が有効です。当たり前と思ってる方が気が楽です、私たちの生活にはありとあらゆる犠牲があります。小さい細菌やらが私たちの身体を守り、昆虫が生態を守り、牛さんの内臓が食べられ、低賃金の人がサービスを支え、私のような人はガス抜きにされ笑、後進国の人を搾取して。それに感謝してたらキリがありません。当たり前と思って見下してる世界に対して感謝ゼロの人の方が楽ですよね笑 ・耐え忍んで努力しても惨めに何も得られず、生まれてただ朽ち果てるのみ。→生まれつきかなりの運命が決まっていて、奮闘しても生まれつき全てを手に入れてる人に搾取される世界です。報われなくてもいいから、少しは良い方向に向かいたいhasunoha(ハスノハ)は、あなた自身や家族、友人がより良い人生を歩んでいくための生きる知恵(アドバイス)をQ&Aの形でお坊さんよりいただくサービスです。そのひとつに、「お坊さん」を考えたことがなかったのであれば、ぜひ一度相談してみてください。なぜなら、仏教は1,500年もの間、私たちの生活に溶け込んで受け継がれてきたものであり、僧侶であるお坊さんがその教えを伝えてきたからです。父の勧めで武蔵野女子学院、短大卒、浄土真宗本願寺派の門信徒です。5年前位からビハーラ僧侶の資格を取り、生きとし生けるもの、万人の苦しみに寄り添いたいと思うようになりました。今年、中央仏教学院専修課程に願書を提出希望なのですが菩提寺の印が必要です。寺に相談した所、税金がかかる?との事でした。私が通学、得度を希望する事によってご住職にご迷惑をお掛けする事になるのでしょうか。hasunohaに参加させて頂きまして以来、この問答にていよいよ500回答となりますが、この間、拙生の取り組んで参りましたテーマとも言えますのが、まさに「空」、そして「縁起」でございました。友だち、同僚、先生、両親、インターネットの掲示板など相談する人や場所はたくさんあると思います。字数制限の関係上ここまでにて、関連の過去問答も是非ご参照下さいませ。昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。