「私が……私がいろんなことをどう思うようになったか分かるわよ。あのね、産まれてまだ一時間も経っていなかったけど、トムの居場所は分からなかった。『神様のみぞ知る』だったのね。私は麻酔から醒めた。すっかり打ち捨てられた気持ちで、すぐに看護師さんに訊いたの。『男の子ですか、女の子ですか』って。看護師さんは『女の子ですよ』って言って、それで私はそっぽを向いて泣いたの。『いいわよ』って私は言った。『女の子でよかった。成長して馬鹿になりますように。この世で女の子にとって、綺麗で可愛らしい馬鹿になるほど素敵なことはない』」「とにかく、何もかも最悪」と彼女は自信たっぷりに続けた。「みんなそう思ってる……いちばん進んだ人たちは、ね。で、私は知ってるの。どこへでも行って、何でも見て、何でもやったから」彼女の周りを見ていると、食って掛かるように目が光った。トムみたいな目だった。そうして彼女は、ぞくぞくするような嘲りを込めて、笑った。「擦れちゃったのね。私、擦れちゃった」トム・ビュキャナンは、さっきから部屋を落ち着きなく歩き回っていたが、歩みを止め、手を私の肩に置いた。「ルイヴィルよ。無垢な幼時代を一緒に過ごしたのよ。私たちの美しい無垢な……」「こいつの言うことを鵜呑みにするなよ、ニック」と彼は私に忠告した。「家族の秘密を教えてあげる」と彼女は活き活きして囁いた。「執事の鼻のことよ。執事の鼻の話聞きたい?」私たちが中に入ると彼女は手を上げ、しばらく黙っていろと指図した。「次週に続く」と彼女は言って、雑誌をテーブルに放り投げた。「乞うご期待」もちろん私には、何の話をしているのか分かっていた。しかし、私は婚約など絶対にしていなかった。噂のせいで、教会が結婚予告(訳注:教会で結婚式を挙げる前に、引き続き三回日曜日に予告し異議の有無を尋ねる)をしていたのも、東部に来る一因となった。噂のせいで馴染みの友達と縁を切ることはできないし、かといって、噂のせいで結婚にまで到るつもりもなかった。「ええっとね、あの人はずっと執事だったわけじゃないの。昔は銀の食器を磨く人で、ニューヨークのお屋敷にお仕えしていたの。二百人の銀の食器を磨いていたのよ。朝から晩まで磨かなくちゃならなくって、ついに鼻が悪くなってきた……」それは明らかにもっともなことだった。続きを待ったが、もう彼女は何も言わなかった。ややあって私は、弱々しく彼女の娘の話を振った。私の片腕を取って後ろに振り向かせると、彼は前景に沿って大きな平たい手を動かした。眺望の低い所にはイタリア式の庭が広がり、半エーカーほどの花壇には真紅の薔薇が強い香りを放っており、沖に向かっては獅子鼻の形をしたモーターボートが潮に洗われていた。「あなたのせいよ、トム」と彼女は責めた。「わざとじゃないって分かっているけど、あなたがしたの。獣みたいな男の人と一緒になったご褒美よ。でかい、でかい、とにかくでかい、根っからの体育会系って感じの……」「ウェスト・エッグ(西側の卵)にはどう行ったらいいですか」と彼はお手上げといった様子で訊いた。私は教えてやった。そうして歩いているうちに、私はもう寂しくなくなっていた。私は案内人であり、開拓者であり、原住民だった。彼は偶然にも、私にこの界隈での自由を授けてくれたわけだ。これは真実ではなかった。私は如何なる意味合いにおいても薔薇とは程遠い人間である。彼女は単に即興で話していただけだったが、こちらの胸が熱くなるほどの温もりが漂ってきた。まるで彼女の心臓が、そういった息を詰まらせ胸を打つ言葉のどれか一つに隠されていて、こちらに跳び出して来ようと必死になっているようだった。すると突然、彼女はナプキンをテーブルにうっちゃり、「ごめんね」と言って屋内に消えた。「家族って、何千年も生きてらっしゃるような伯母様がお一人だけですけど。それに、ニックがジョーダンをみてくれるよね、ね、ニック。ジョーダンはこの夏、週末は大抵ここまで出てきて過ごしてくれるし、家庭の空気も彼女にはうまく作用すると思う」「ええっとね」と彼女はためらいがちに言った。「トムにはニューヨークに女の人がいるの」「さて、これこれに於ける俺の意向が最終的なものだとは思わないでくれ。俺の方がお前よりも強く、男らしいからとはいえ」彼はそう言っているようだった。私たちは同じ学生団体に属していた。互いに親睦したことこそなかったが、私には常に、彼は私を認めており、そして私に好意を抱いて欲しがっているのだと思われた。ぞんざいで生意気でも、彼なりに遣る瀬ない気持ちでいたのだろう。今より若く傷つきやすかった頃、父がある助言をしてくれた。今にいたるまで、噛み締めている教えだ。「私が?」と言って、彼女は私を見た。「思い出せないわね。でも、北方人種の話はしたかもしれない。そう、した、した。いつの間にかそういう話になって、気づいたら……」nakanotakuさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?ほんの束の間のことだが、陽が沈み切ろうとする瞬間、西日に煌めく彼女の顔が狂おしいほど愛おしく映った。彼女の声を聴いていると、私は息をするのも忘れて前のめりになった――やがて煌めきは褪せ、光が一縷、また一縷と名残惜しそうに彼女から失われていった。あたかも黄昏に子供が大好きな路傍で遊んでいるのを止め、一人、また一人と散っていくように。「こういう本は全部科学に則って書かれている」とトムは苛立ち、彼女を一瞥して語気を強めた。「この著者はあらゆる問題に取り組んでいる。目を光らせておくべきなのは、俺たち、支配する側の人種であってな、さもなくば、ここに書いてある他の人種が事態を牛耳ってしまうことになる」ほっそりした身躯を気だるそうにさせ、手は軽く腰に当て、二人の女性は私たちに先立って、外の薔薇色のヴェランダに出た。夕陽が燃えていた。蝋燭が四本、テーブルの上で微風を受け、揺らめいていた。「実にすてきだよ」彼はそう言ってばつが悪そうに私を見た。「食事が終わってもまだ明るかったら、馬小屋まで案内したい」「ヴェランダで、少しはニックと心通わせて話したのか」と唐突にトムは質した。「君が話したミスタ・ギャツビーというのは僕の隣に住んでいてね……」と私は話し始めた。「いずれ聞くことになる」と私は短く答えておいた。「東部にいるなら、きっとね」F.
いま読まれています. 教室(68)第8章 消費中心主義とエックルバーグ博士の目と神. 電⼦書籍で買う. 教室グレートギャツビー第8章の記事(9件) 教室(70)第8章ニックがギャツビーにそう言ってくれておいたのがせめてもの救いです。 教室(69) 第8章 男の人を振っちゃう 手紙を こう言います. 二人が親しくなったある日。ニックはギャツビーの秘めた思いを知ることになる。若い男女が狂乱の騒ぎを繰り広げる中、彼は招かれている客人たちが誰一人としてギャツビーの素性を知らないということを認識した。この『グレート・ギャツビー』という小説は、出版当時広く社会に受け入れられたとは言い難い側面があります。やはり、「翻訳のプロ」らしく原作を尊重した訳がなされているからです。一番分かりやすいのは、本作で描かれる大規模なパーティーに象徴される「狂乱」の要素でしょうか。この原因については研究などでもいくつかの点が指摘されていますが、まとめてみると「アメリカが最も栄えていた時代」が「過去の歴史」として憧れのまなざしをもって見つめられるようになったことが大きいということになるようでした。猛烈な浪費から生じる借金やスコットの執筆業に関する行き詰まりはアルコール依存症や精神病の発症へと繋がり、「狂乱の時代」が終焉するとともに二人も社会から忘れ去られていったのです。本作のキーマンとなるジェイ・ギャツビーは、正体不明の大金持ちとして信じられないほど豪華な邸宅を所有し、その地で毎晩のようにパーティーを開いています。第一次世界大戦後のアメリカ社会は、空前の好景気に沸いていました。しかし、1940年のスコット死去から数十年が経過した1960年代以降になると本作がふたたび注目されはじめ、さらに「歴史的な作品だ」と見なされるようにもなっていったのです。また、翻訳家としても活躍する彼は『グレート・ギャツビー』の訳書を出版するにとどまらず、フィッツジェラルドの著作を数多く翻訳していることでも知られています。そのため、普段のように読み方の解説をするというよりは、基本的な時代背景や作品評価の変遷を解説するという構成を採用しました。異常な奔放さと自尊心が目立つ女性であり、さらに夫婦はお互いがアルコールを水と見まがうほどに摂取する悪癖があったため、彼らの間にはまさしく「グレート・ギャツビー」の世界がそこには展開されていたのです。このことに興味を持ったニックは、ギャツビーからの招待を快諾し隣家へと足を運んだ。そのため、当時その世代のど真ん中にいたフィッツジェラルドが描いた小説ということで、言うまでもなく時代の影響を色濃く受けています。今でもバブルの記憶があるという方は少なくないはずで、そういった意味では日本人としても身近に感じやすい物語かもしれません。俄然ギャツビーの正体に興味を持ったニックは、彼と顔を合わせるとしだいに仲を深めていくのだった。作中でギャツビーが愛した女性のゼルダは、作者のフィッツジェラルドが妻としたゼルダ・フィッツジェラルドがモデルであると言われます。この作品は近代に入ってから執筆された小説ということもあり、このサイトで紹介する作品の中ではトップクラスに読みやすい文章で構成されているといえます。これは決してフィクションに限定された出来事ではなく、現実でも似たようなイベントが頻発していました。こうして再起の時をみないままスコットがアルコール依存症からくる心臓麻痺で亡くなると、ゼルダも精神病院の火災に巻き込まれて亡くなってしまいました。ネタバレになってしまうので詳しくは書けませんが、デイジーの「悪女」っぷりは史実のゼルダと非常によく似ているのです。そんな時代には、文学の世界においても傑作と呼ぶにふさわしい作品が数多く世に送り出されました。というより、私が知る限りでは史実のゼルダのほうが物語よりもずっと凶悪にも思えます。ただ、その「パーティー」は一般的なそれと大きく異なり、若きセレブ達が酒を浴びるように飲んでは大暴れするといった「下品」なものなのです。その結果、フィッツジェラルドの名が時代から消えると作品もまた姿を消し、彼は本作の存在を収入につなげることができないまま借金に苦しんだのです。そのため、いわゆる「ハルキスト」でもない限りは、まず野崎訳の本を先んじて読むべきでしょう。