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Ralph Hallmon/APカブールの北にあるバグラム空軍基地の警備にあたる海兵隊員(2002年3月2日撮影)。REUTERS/Mario LaportaDoD-Handout/Reutersアフガニスタン北部のチャラトイ(Charatoy)付近での戦闘を終え、前線から戻ってきた北部同盟の兵士たち(2001年10月10日撮影)。Gleb Garanich/Reutersタリバン軍への爆撃。立ちのぼる土埃や煙を眺める北部同盟の兵士たち。2001年11月1日、アフガニスタン北部にあるアイ・ハヌム村近郊のカラカタの丘にて。Vasily Fedosenko/ReutersWFPの配給に集まってきたカブール市民たちに対し、秩序を維持しようと木の枝を振り回すアフガニスタン人の警備員(2001年12月8日撮影)。Peter Andrews/Reuters戦車の隣に立つのは、アフガニスタン東部で戦う反タリバン勢力の地元兵(2001年12月28日、アフガニスタン北東部トラボラの山岳地帯にて)。Enric Marti/AP就任式を終えた暫定行政機構のハーミド・カルザイ議長(2001年12月22日、カブールにて)。Brennan Linsley/AP上空を旋回する米軍の輸送用ヘリコプター「CH-47(チヌーク)」(2002年3月5日、アフガニスタン東部パクティーアー州ガルデーズにて)。Reuters米軍が攻撃した野営地付近。アルカイダもしくはタリバンの兵士の遺体の横を米兵たちが通り過ぎる(2002年3月16日、アフガニスタン東部のシャヒコト渓谷の「Whale(クジラ)」と呼ばれる山頂にて)。Reuters記者の取材に応じるドナルド・ラムズフェルド国防長官(写真右)。2003年5月2日、ロンドンのヒースロー空港にて。Michael Stephens/Reutersアフガニスタンのカブールで開かれた式典に出席する元反政府組織の兵士たち(2006年2月5日撮影)。Ahmad Masood/Reuters投票所となったモスクで、総選挙に投票した後、染めた指先を見せるアフガニスタンの女性たち(2005年9月18日、カブールにて)。Zohra Bensemra/ReutersREUTERS/Kevin Lamarqueアフガニスタン東部にあるキーティングの拠点近くをパトロールする米兵(2009年1月24日撮影)。Bob Strong/ReutersREUTERS/Massoud Hossaini/Pool総選挙の候補者とその支持者たちの抗議行動(2010年11月7日、カブールにて)。Ahmad Masood/Reutersホワイトハウスのシチュエーションルームで、「海神の槍」作戦(Operation Neptune Spear)の進行状況を見守る国家安全保障チーム。この作戦によりビン・ラディンは死亡した。Wikimedia Commons撃墜されたヘリコプターとほぼ同型のCH-47(チヌーク)が離陸するところ(2011年8月26日、アフガニスタン東部の監視拠点にて)。Nikola Solic/Reutersオバマ大統領の演説に聞き入る米兵(2012年5月2日、カブールにて)。Kevin Lemarque/ReutersNATOが主導する国際治安支援部隊(ISAF)の旗を手にする司令官のジョン・キャンベル(John Campbell)陸軍大将(2014年12月28日、カブールで行われた任務修了の式典にて)。Omar Sobhani/Reuters訪問中の米陸軍准将クリストファー・ベントレー(Christopher Bentley)氏に、アフガニスタン国家警察の警察官たちが訓練の様子を披露した(2014年12月16日、ナンガルハール州にて)。Lucas Jackson/Reutersヘルマンド州のキャンプ・ショラブ(Shorab)で行われた権限移譲式典で整列する米海兵隊員(2017年4月に撮影)。Thomson Reutersアフガニスタンには現在、8400人の米兵が引き続き駐留している。Thomson ReutersCarolyn Kaster/Associated Press[原文:(翻訳:遠藤康子/ガリレオ)AdvertisementSponsoredSponsoredSponsoredSponsored アフガニスタンとイギリスの間で起きた「アフガニスタン戦争」。1838年から1842年、1878年から1881年、1919年と3回にわたって争われました。アフガニスタンは東にインド、西にペルシアと接していて、地政学的に重要な位置にある国です。これまでアケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王、クシャーナ朝、ササン朝、エフタル、突厥、イスラム帝国、モンゴル帝国、ムガル帝国、オスマン帝国などの支配を受けてきました。アフガニスタン人自身が統治をしたのは、1709年に成立したホータキー朝から。その後ドゥッラーニー朝を経て、アフガニスタン戦争時はバーラクザイ朝が治めていました。第一次と第二次のアフガニスタン戦争は、19世紀に南下政策を推進するロシアと、これを阻止しようとするイギリスとの間でくり広げられた「グレート・ゲーム」と呼ばれる争いの一環としておこなわれます。イギリスは、重要な植民地であるインドにロシアの影響力が及ぶことを警戒し、まずはアフガニスタンを保護国化しようとしたのです。実際に第二次アフガニスタン戦争によって、イギリスはアフガニスタンを保護国にしています。第三次アフガニスタン戦争は、第一次世界大戦が終結した後、独立を試みたアフガニスタンがイギリス領のインドに攻め込んだもの。この結果、1919年にアフガニスタンは独立を果たしています。三次にわたる戦いの結果、アフガニスタン側とイギリス側をあわせて、1万7000人以上の死者が出ました。1826年、ドゥッラーニー朝で代々宰相を輩出していたバーラクザイ部族が、内紛を制してバーラクザイ朝を成立させます。するとインド北西部を支配していたシク王国の創始者ランジート・シングは、ドゥッラーニー朝の旧王家だったサドーザイ部族のシュジャー・シャーを支援しました。これを機に1838年、イギリスのインド総督ジョージ・イーデンは、ランジート・シングとシュジャー・シャー側についてアフガニスタンに宣戦布告をします。これが「第一次アフガニスタン戦争」開戦のきっかけです。1839年1月にはアフガニスタン領内に侵攻し、カンダハルやカブールなどの重要拠点を相次いで占領。バーラクザイ朝の創始者であるドースト・ムハンマド・ハーンを降伏させて、シュジャー・シャーを国王に復位させました。しかし、バーラクザイ部族はアフガニスタンの各地でゲリラ的な抵抗を続けます。耐えきれなくなったイギリス軍は1842年1月に撤退を始めるものの、冬季の峠越えと相次ぐ襲撃によって軍が全滅する惨敗を喫しました。この時にシュジャー・シャーも殺されています。その後ドースト・ムハンマド・ハーンは、イギリスとの間に「ペシャーワル条約」を締結。しばらくは友好的な関係を続けます。1863年にドースト・ムハンマド・ハーンが亡くなると、シール・アリー・ハーンが即位。彼はイギリスとの関係を軽視するようになります。さらにロシアが南下政策を始めてブハラ、ヒヴァ、コーカンドという3ヶ国を征服し、アフガニスタンはロシアとイギリスの狭間で難しい立場に立たされることになりました。そんななか、1878年に、イギリスの使節団がアフガニスタンへの入国を拒絶され、ロシアの使節団のみが許可されるという事件が起こります。このままではロシアがアフガニスタンに進出してしまうと危惧したイギリスが、宣戦布告。「第二次アフガニスタン戦争」が開戦しました。1878年11月、イギリスは3方向からアフガニスタンに侵攻し、カブールなどを陥落。シール・アリー・ハーンは非難先で亡くなり、跡を継いだヤアクーブ・ハーンが降伏。1879年5月に「ガンダマク条約」を締結して、アフガニスタンはイギリスの保護国となりました。イギリスは駐留を継続するものの、相次ぐ反乱に耐えられなくなり撤退。その後は、王族のひとりだったアブドゥッラフマーン・ハーンが権力を握り、アフガニスタンは近代化を進めていきます。1919年、アブドゥッラフマーンの後を継いだハビーブッラー・ハーンが暗殺されると、アマーヌッラー・ハーンが国王に即位。彼は「第一次世界大戦」でイギリスが疲弊していることを好機ととらえ、イギリスに対するジハードを宣言。国境であるカイバル峠に軍を進め、「第三次アフガニスタン戦争」が始まりました。しかし戦線は膠着。アフガニスタンはイギリス軍の空爆で犠牲を出し、またイギリスも長期化を望んでいなかったため、わずか1ヶ月で停戦が実現します。「ラーワルピンディー条約」によってアフガニスタンは外交権を回復し、イギリスから完全に独立を果たすことになりました。「アフガニスタン戦争」は、19世紀にイギリスとアフガニスタンの間で起きたものでした。一方の「アフガニスタン紛争」は、1978年以降断続的に起こっている戦いのこと。1978年から1989年まで、1989年から2001年まで、2001年から現代までの3つの時期に分類するのが一般的です。共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党政権に対し、反乱勢力が蜂起したことから始まります。1979年にはソ連が軍事介入をし、1999年に撤退しました。日本ではソ連による「アフガニスタン侵攻」と呼ばれることが多いです。ソ連内部にも介入に否定的な意見の人もいたそうですが、彼らにとってアフガニスタンは要衝の地。失うと安全保障上多大な影響があると考え、軍事介入にいたったそうです。また1978年に起こった「イラン革命」の影響で、イスラム原理主義がアフガニスタンに広がっており、ソ連に飛び火する可能性も懸念材料になっていました。アフガニスタン政府やソ連軍と戦った反乱勢力の兵士たちは「ムジャヒディン」と呼ばれます。アフガニスタン人だけでなく、後にアメリカ同時多発テロを引き起こすウサマ・ビンラディンなど、イスラム諸国から駆け付けた20万人以上の義勇兵も含まれていました。アメリカはCIAなどを駆使して彼らに武器や資金を援助。また中国も訓練キャンプを提供するなど多くの国がムジャヒディンを支援したそうです。ソ連が撤退した後のムジャヒディン同士の内戦と、タリバンの政権掌握、そしてアメリカと有志連合諸国の攻撃を指します。タリバンは、パキスタン軍の情報機関であるISIや、サウジアラビアからの支援を受けて結成されたイスラム主義組織のこと。混乱が続くアフガニスタンの現政権を見限り、タリバンがアフガニスタンを統一するよう仕向けたのです。テロ組織アルカイダもタリバンを支援します。勢力を増していったタリバンは、1996年にカブールを占領して「アフガニスタン・イスラム首長国」の樹立を宣言。元大統領を殺害して晒すなど、過激な行動に走ります。1998年、ケニアとタンザニアにあるアメリカ大使館が爆発される事件が発生。アメリカはタリバン政権にアルカイダの引き渡しを求めましたが、タリバンは拒否。アメリカは軍事攻撃や経済制裁をくだすなど、両者の対立は深まっていきました。2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生。実行したのは、ウサマ・ビンラディンが率いるアルカイダです。アルカイダは当時、アフガニスタンの90%を実効支配していました。アメリカは、アルカイダの引き渡しに応じなかったタリバン政権に対し、「不朽の自由作戦」にもとづいて攻撃。わずか2ヶ月ほどでタリバン政権は崩壊しました。2001年11月には暫定政府が発足。2004年におこなわれた大統領選挙を経て「アフガニスタン・イスラム共和国」が正式に成立し、カルザイが初代大統領に就任します。しかし2005年後半から、タリバン勢力がアフガニスタン全土で蜂起。駐留するアメリカ軍やNATOが設立した国際治安支援部隊、アフガニスタン国軍を相手に抵抗を続け、2019年現在も終息の兆しが見えない状況が続いているのです。またアルカイダについては、2011年にウサマ・ビンラディンがアメリカの特殊部隊によって殺害され、2019年には息子のハムザ・ビンラディンも殺害されていますが、いまだ組織の根絶にはいたっていません。アフガニスタン紛争は、アメリカが建国して以来もっとも長い戦いとなり、2018年10月までで約14万6000人の命が失われたといわれています。2001年から実行されたアメリカの「不朽の自由作戦」は、2014年12月28日に終了。当時大統領だったバラク・オバマは、「アフガンでの戦闘任務は終わり、米国史上で最長の戦争は責任ある終結を迎える」と宣言しました。オバマ大統領が掲げた計画では、2015年1月からは、アフガニスタン治安部隊への支援や、アルカイダの残党に対する対テロ作戦を主眼とする「自由の歩哨作戦」を開始して、2016年末までに大使館の警護要員らを除いて全面的に撤退するとのことでした。しかし想定よりも治安部隊が弱体化しており、アメリカ軍抜きでタリバンに対抗することは難しく、2015年10月に計画は見直し。2017年にはトランプ大統領のもとでアメリカ軍が増強されています。タリバンは、最高指導者ムハンマド・オマルが2013年に、後継者のアフタル・ムハンマド・マンスールも2016年に殺害されていますが、第3代最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダのもと、勢力を維持しています。その一方でアメリカやアフガニスタンとの和平交渉は断続的におこなわれていて、2019年9月2日には、タリバンがアフガニスタンを攻撃拠点として利用しないことを条件に、アフガニスタンに駐留するアメリカ軍約1万4000人のうち5400人を20週以内に撤退させることで大筋合意したと発表されました。しかし9月5日、カブールでアメリカ兵1人を含む12人が死亡した自動車爆破事件が起こり、タリバンが関与を認めると、トランプ大統領は9月8日に予定されていた会談を中止。この会談には、タリバンの指導者とアフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領が出席する予定でした。さらに9月9日、トランプ大統領は「和平交渉は死んだ」と述べ、アメリカ軍による攻勢を強化する考えを明らかに。一方でタリバンとの交渉に否定的だったボルトン国家安全保障問題担当大統領補佐官を解任したり、「和平協議を再開する方法がある」とTwitterで主張したりと、計略をめぐらせている状況です。弱腰の交渉に対してはアメリカ国内からの批判の声もあり、アメリカ国民を納得させられるだけの大義名分を得られるかも重要な論点になっています。仮に治安部隊やアフガニスタン国軍の強化が進まないなかでアメリカ軍が撤退すると、タリバンの攻勢は増すばかりでしょう。今後も予断を許さない状態が続きます。タリバンはアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」の複数形。もともとは、ムハンマド・オマルが開いたイスラム神学校の生徒たちが主なメンバーでした。彼らが最初に蜂起したきっかけは、アフガニスタンの反乱勢力「ムジャヒディン」によって誘拐された2人の少女を救い出すためだったそうです。無事に少女を救出し、地元の住民たちからは「正義の味方」としてもてはやされていました。本書は、そんなタリバンをはじめ、アフガニスタンの現代史を記したもの。作者の田中宇はジャーナリストとして現地取材もしており、当事者からしか得られない情報もふんだんに盛り込まれています。アフガニスタン紛争を知るうえで欠かせない、タリバン、アルカイダ、そしてアメリカの関係を俯瞰して知ることができる一冊です。アフガニスタン紛争においてもっとも「絶望的」といわれる戦いを生き抜いた、アメリカ軍の二等軍曹が記したノンフィクション作品です。2009年10月3日、アフガニスタンとパキスタンとの国境付近に設置されたアメリカ軍の基地が、およそ300人のタリバンに包囲され奇襲を受けました。アメリカ軍とアフガニスタン軍の混成部隊は50人しかおらず、圧倒的に不利な状況。陥落寸前まで追い込まれながらも基地を守り抜いた攻防の描写は、思わず息を飲みます。翻訳が読みやすいことも魅力でしょう。報道されることの少ない、リアルな戦いを知りたい方におすすめです。